突然だが、
男は、社会人3年目の年度を迎えていた。
2年前、業界未経験の新卒で、スパルタ塾から内定をもらうままに入社し、受験指導の右も左もわからない状態で、勢い社会人生活をスタートしたが、多くの困難が待ち受けていた。
授業で意味があることを話せない、ホワイトボードにまっすぐ板書が書けない、コピーが汚くなる、塾生が下を向いたままになる、相談に答える知識がない・・・。
当初、
「ボクにはキミの質問に答える義務がある。何でも聞いてよ」と言っていたはずの学歴自慢の所属長は、いざ困って話しかけるたびに半笑いで、
「いや、キミに任せているんだから。何とかして」と嘲りの混じった返答を返すだけだった。
食い下がると半笑いが半ギレに変わった。
面と向かって
「こんな授業じゃあ成績上がらないし!」と受験生に言われたこともあったし、
「あいつの担当じゃなくてよかった~」と塾生どうしがささやく声が嫌でも聞こえてきた。
半期毎の本社直行授業アンケートの結果は、明示されなかったが恐らく最悪で、「エリア長」が授業をわざわざ視察に来た。
「社員だろ?これはまずいよ?」
「成績上げられないうちは仲間じゃないよ」
「オマエの担当する塾生は、オマエの実験台かよ」
高齢バイト講師から、あるいは、いつもは所属長に叩かれている係長職から、一番立場の低い男へと追い込む言葉は盛んに飛んできた。
今想えば、それぞれがゆがんだストレスをかけられていて、その歪みを新卒社員にぶつけて吐き出し、敵を取るような醜い構造になっていた。
根性論は聞こえてきても、解消できるアドバイスを聞いたことはなかった。
何かを明るく感じられる要素は全くなかった。
この時間はいつまで続くのだろうか?
最高学年⇒卒業⇒入学⇒進級⇒最高学年⇒卒業⇒就職・新卒・・・。
環境が変わるたびに立場はリセットされるっていうけど、ここまで下がるかよ・・・。
1年目の終わりに、男は300人級の中規模校舎から、沿線の小規模校舎に異動になった。
自分自身を「戦力外の社畜歯車」と強く認識していた。
*
異動先は、初年度の校舎と同じ沿線上であったが、若干田舎方面に下った駅の前にあった。
新しい所属長は、前の所属長と社歴はほぼ同等であるらしいが、ここまで違うのか?という風景を男は目にした。
「任せてるから」と言って座ったままドッカリ座って動かなかった前の所属長に比べ、上司が自ら動かなくても・・・と思える状況で自分から陣頭指揮を執る。
係長職をいびるのではなく、同志のように囲い込んで使いこなす。
異動先の係長職は、すぐに怒り狂う短気さを自認していたが、経験値と指導力は、前の部署のそれは居なかったと思わせるほどの高さであった。
新卒社員に威張る高齢バイト講師が跋扈していた前の校舎に比べ、何かと親切な講師が多かった。
この新しい1年で、男はまた数えきれないほどの失敗をし、叱責にあったことも多々あったが、周囲の顔色を見て委縮しながら仕事をすることがなくなり、キャパできる仕事の種類も量も増えていった。
気づけば校舎は、ノルマとして課されていた200名超の塾生数を達成し、所属長はもちろん、校舎を挙げての表彰(と賞与)を受けた。
目標達成後に所属長が男に言った。
「魁くんのいる校舎は必ず人数達成するねー!」
そんな評価をもらえるような貢献をした自覚はない。
1年目の校舎も校舎ノルマは達成していたが、自分は蚊帳の外であり、全力で足を引っ張った。
2年目は、環境が変わって体力任せに1年間を過ごしたが、自分の拙い職務遂行能力で、どれだけのプラスを生み出せたというのか。
恐らく、新しい所属長からすればそれはそれはヘタクソな仕事をやっている様に見えたろうし、男の知らない部分で尻ぬぐいに走ったことも一度や二度ではないはずだ。
たくさんのフォローをしてもらい、たくさんのチャンスをもらいながら、それを活かしきった実感はない。
新卒2年目がちょろっと異動してきたくらいで、一気に塾生数が増えるはずもない。
それを承知の上で「あなたがいる校舎は達成するね!」と慰労の言葉をかけられたことは、現実はどうあれその心遣いがもちろん男の胸を熱くしたし、
「本当は困った社員だが、おだてておけばいいか」
等と、もしも内心笑われていたとしても、真意はどうでもいいと思えた。
ズタズタで異動してきた男の心を、拾ってくれたのがこの2年目の所属長だったのである。
人数が増える評判の良い校舎も、クセのある社員をロデオのようにコントロールするガバナンスも、バイト講師が親切にふるまう環境も、全てこのリーダーがマネジメントしてきたのだ。
男と同じ未経験新卒から10年間叩き上げた、少し甘いところはあるが、馬力のある快活な社会人であった。
あと10年したら、同じようなリーダーになれているだろうか?と考えたときに、そうなれる!!という確信を持てるレベルには達しなかったが、「理想像」を描くには十分な、
人格と結果
を両立させる先輩を、初めて敬意をもって認識した。
*
3年目が差し迫っていた。
良いときは長く続かなかった。
全てが順調に上向いていたはずの校舎であったが、入れ替わりの激しい会社組織の中にあって、所属長が配置転換されることが決まった。
「キミなら何とかなるよ!係長を支えてあげてな!」
長は10年目らしく、しんみりした様子は欠片も見せずに仕事道具を自家用車に詰め込み、去っていった。
男にとって、その「何とかなるよ」が本心なのか?あるいはリップサービスなのかは思考の外に逸れた。
(まだあなたと話したりないことがたくさんあります。どんな話題かは出てきませんが、何でもいいので話したかった)
という内心の言葉を口にしたところで、現実何かが解決するわけではない。
「わかりました。任せてください」
これは内心だったのか、言葉に出すことができたのか、よく覚えていない。
しかし、
しかし、そしてほどなく、社内でも怠惰で狡猾であると指折りの、現在の男の所属長が、ジワジワと全てを変容させていった。
肉体の蓄積・勤続疲労がそうであるように、違和感は初めからは襲って来ない。
しかし決められた刻限を境に、耐えがたいほど急速かつ強烈になって姿を現す。
思うに、例えば腰痛は厄介な肉体症状だが、ある閾値を超えたときに歩行が困難になるほどの痛みが自覚される。
が、その原因が一瞬で完成していることは稀であり、多くは日常生活における不自然な姿勢のズレや肉体の酷使、あるいは運動量の少なさが積み重なって、無自覚ではこらえきれないレベルに達したときに「これはムリ」という痛覚が届くようになる。
好きだった前任から、強烈な悪評を伴って異動してきた新しい上司に対し、最大限の緊張感を持って対峙することで、男の3年目が始まった。
だが、違和感はすぐにはやってこない。
後任は、一見情熱家に見せていて、にこやかに(それでいてベッタリと)微笑みながら、
「自分のいい思い付き」
を小出しに男の職場に加えていった。
なぜ思いついたかをバカっ丁寧に長く語られることで無駄に業務時間が圧迫されたが、
「話が長いんで」
とぶった切る勇気と非礼さを男は持ち合わせていなかった。
ふと気づくと、快適だった職場は、新しい所属長の都合のいいように、数々の奇妙なルールで満たされている状態になっていた。
前年から男の直の上司である係長は、元々感情の抑えが利かないタイプであったが、所属長が後任に変わって明らかに粗暴な行動が増え、理由なきことで怒鳴り声を上げたり、学生バイトや女学生の事務パートに支配的な言動をとった。
後任の所属長へのあることないことの罵詈雑言を、客が居ようとはばからずに口にするようになった。
「筋が通ったことに対してしかおれはキレない!」
と係長は都度息巻いていたが、筋がどうのこうのでなく、周囲が彼のご機嫌を気にしながら仕事をせねばならない段階で、理屈ではなく感情が場をコントロールしていることになる。
順調に狂った職場へと変貌していったのである。
*
男は異動願を出したい思いにも駆られたが、前任の長から引き受けた(と内心で思うようになっていた)校舎と塾生を放り出したくないという気持ちがギリギリ勝っていた。
ただ、このままではいずれ限界が来る。
男の胸にたえがたい腐敗感が込み上げてきたとき、男の目に留まったのが、
「パレスでのスキルアップ研修の募集」
だったのである。
今を変えたい。
何かつかめるかもしれない。
あるいはそれは、一瞬でも変わり果てた職場の狂気から離れたかったのかもしれない。
一瞬考えた後、いつもは話しかけるのに躊躇する係長に、男は研修参加を申し出た。
*
男とくまちゃんは、更衣室にいた。
パレスに入ると、予想を裏切る静けさが二人を迎えた。
叫ぶような挨拶もなく、むしろ優し気ともとれる対応を受ける中で、スーツからの着替えを促された。
事前に、各人のBODYのsizeをパレス研修担当者に伝えてきたことを男は思い出した。
真っ白な、例えるなら「給食エプロン」を大の男用にスケールアップさせたような上下を着、胸部の指定された位置にさながら児童のごとく、
「魁」
と書かれた、これも大きめの名札を付けた。
この装束は「訓練服」と呼ばれるらしい。
そして、「研修の開講式」の集合時刻を確認し、刻限が迫るとそそくさと指定の場所に移動した。
「いらっしゃい」
その会場には、男たちと同じ「訓練服」を着込んだ、中年でガラガラ声、金属フレームの眼鏡をかけた「センセイ」と呼ばれる教官たちが満面の笑顔で居並んでいた。
ただし、全開に見える笑顔の中にあっても目じりに皺が寄っていない。
そして、半そでの訓練服から突き出る「センセイ」の二本の腕は、通常の人間のフトモモのそれをはるかに超越し、男がこれまで知りえた言葉の中で表現するなら山奥の林業地域で伐採されたばかりの、
「丸太んぼう」
を凌駕する直径であると視認できた。
それらはかろうじて重力に従って、垂直方向にぶら下がっていた。