公立高校入試の合格発表がありまして、6人お預かりしていた受験生のうち、1人のお子さんを、志望校に合格に至らすことができませんでした。
「魁には珍しいことだ」とか、
「8月にスタートしてから各種の数字は上がっていた」とか、
「こればかりは本人次第ですから・・・」とか、
関係する方からはねぎらいにあたる言葉をもらいました。
が、魁がたくさんの受験生をお預かりする中でも、保護者さんにとってのお子さんはただ一人の全てであり、途中経過が良かったとしても、「ゼロなのか100なのか」の合否で決まる受験において、結果を出せなかった事実に変わりはありません。
「でもよくやったよね」とか、「上がってたんだし、惜しかったね」という言葉は、お子さんと保護者さんが感じてくれるならまだ良いですが、塾からお子さんにかけたとしたらはき違えています。
お子さんには、
「(合格した人と)あなたは何も違いはない」
「めんどくさいときも、やる気が出ないときも、週4回、急ピッチの私の指導によく付き合ってくれた」
「苦手を克服してきた伸びを、目の前で見た私は知っています」
「そのまま進んでくれればいい」
と、伝えました。
(もっとお子さんウケのいい言い方があるのかもしれませんが)
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合格者を切り取り、いそいそと全校舎の数字を集めて、華々しい写真や飾りをベタベタ張り付けて回る塾もありますし、
明らかに凋落した入試結果を目にしているのに、「結果は結果として」等と前置きしつつ、「受験生ごとにドラマがあったんだし」という自分たちに酔ったフレーズで片づけようとする塾もあります。
早々に、誰ともなしに「さ、次だ次!」と言い始めます。
受験指導に至るまでの検証が驚くほど行われません。
「何となく入試がオワッタ~~やれやれ、ひと仕事したわー」で済ませる、この業界に蔓延する、ズレてぬかるんだ考えです。
実際ドラマチックな展開というのは、テスト本番で起きえます。
が、自塾の受験結果を「ドラマだったね~」と評しているのは恐ろしい話です。
直視していたら、ドラマなんていう気取った言葉はどこからも出てこないはずなんです。
あったのはドラマでなく、現実ですから。
なんでドラマに頼る展開に追い込まれるまで、お子さんを鍛えられなかったのか?
その現実を、そのジュクが産んでいるんです。
自覚していないから「ドラマだね~」と他人事を言うのでしょうが。
合格者を受験者数で割り算して、「はい!合格率〇〇%~~」と誇示することは、塾にとって生命線です。
それさえすれば、御の字なのでしょうか?
合格をアシストできなかったお子さんと保護者さんにとっては、0%なのではないでしょうか?
それは「ひと仕事」なさったことになるのですか?
その手のジュク特有の、失敗から率先して目を背ける風潮からは、学ぶことが1ミリもありません。
そして、振り返る瞬間に振り返らず、直せる瞬間に直さず、忘れたころに同じ過ちを繰り返します。
もちろん、1年後に同じようなケースで、同じようにお子さんを不合格にして、またまた失敗から目を背けるようなことを延々と続ける。
・・・そういう自称・教育者さん達と同じ有り様になってしまったとしたら、とてもとても恥ずかしいことです。
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魁は、お子さんを合格させられなかったことは初めてではなく、過去にも何度もあります。
合格はしたものの、当初入りたい!と志望していた学校からワンランク落とす調整が必要だったことも何度もあります。
そりゃ、割り算した率は良いと言われますが、それも、あくまで「これまでは」です。
胸を張れることではないです。
失敗したらその場で反省する(戦術・戦法の面はここには書きません)。
次に繰り返さないために、明確に整理する。
ただし、いつまでも脳内でウジウジブツブツと反省だけしていても現実は変わらない。
今、お預かりしているお子さんたちに、決して同じ轍を踏ませないように、自分を直す。
マイナスの感情を持ち込まないで、今の目の前の一問にパワーを注ぐ。
(そもそも反省検証の段階で、マイナスの感情に囚われることはないはず)
全知全能で万能の指導ができるわけではないです。
けれども、目の前の指導に集中することはすぐにできます。
高校に進学しても、しばらくは新高校1年生の指導を頼みたいとお聞きしました。
その気持ちに応えられる何かを提供する時間にします。