突然ですが、
この魁、自分自身のスマホでニュースを見るアプリを変更しました。
以前より、テレビのニュースや新聞は、速報性と公平性に欠けると感じていて、ほとんど見ることがありません。
そして、テレビ画面の前、あるいは新聞紙を抱えて、一時的に行動を止めているにもかかわらず、「90%以上、自分にとって知る必要がない情報」がただ流れてくるのを眺めるのが無駄に思え、テレビをつける、新聞を買って読むという機会がほぼない状態です。
聞くところでは、日本人の多くはテレビにかじりついて情報を得ようとしますが、そうでない人はだいぶ増えてきていて、「全然ニュースなんて見ない」という人も徐々に珍しくなくなっているようです。
外国の方がもっと顕著という話も聞きましたが、統計データまではないです。
ただし、「自分とかかわりのない他人のニュースに拘泥して、いっぱしに意見をぶつ!」傾向はいかにも日本人らしいし、
比べて、「他人はどうでもいいから、自分の目の前のことに時間と体力を使う!」という傾向は、いかにも欧米の発想らしいなと感じました。(特にドイツ人はそうであるとか)
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スマホのニュースアプリであれば、「自分の設定」「検索履歴」である程度無駄が省けるため、よく利用してきました。
ただし、報道を引き目で見る(どんなニュース情報も人が介在して伝えているため)、そもそもスマホに吸われる時間自体が、対価として得るものが少ないという思いは常に持っています。
ところで、「アプリを変えた」直接の理由は、
ニュースへのコメント機能が鬱陶しかったからです。

例えば、スター芸能人の方が結婚されたとします、その時に
「~~~さん、ほんとうにおめでとうございます!」
「ーーーさんとお似合いでほっこりしました!」
といったコメントが溢れかえることはよくあると思うのですが、魁には、
「それは誰に向かって書いているんだろう??」
という疑念が湧いてきたのです。
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「エゴサーチ」「エゴサ」というワードが一般化してきましたが、例えば、コメント機能上で
と発したあなたの祝意は、果たしてどれだけの確率で、そのスターさんご本人に届くのでしょうか?
ていねいにエゴサして、祝意を受け取ってくれるのでしょうか?
あるいは、政治のニュースになると、
「***は老害のヒドイ政治家だ!」
「・・・の党は~~~の利権とズブズブだから!」
といった真偽の怪しい、時には対象の存在を否定しかねない敵意のこもったコメントが盛んに投稿されます。
さらには、「こういう時のために、もっと●●●な法律を制定してほしい!すべきだ!」といった意見が書かれます。
その政治家、あるいは為政者は、あなたのご批判や提言に目を通し、反映と改善をしてくれるのでしょうか?
魁には、その祝意も、批判も、提言も、すべて自分のお部屋のカベに向かってモソモソつぶやいているのと大差なく、亜空間に放たれて消えていくようにしか思えなくなってきたのです。
同時に、コメント機能があると、「ニュースの閲覧後に何となくコメントを見回してしまう」という何となくの私自身の行動が、自らの持てる有限な時間を消耗させているという考えにいたりました。
熱い思いがあるとしても、コメントでは相手に読まれる可能性はないのが現実で、ただし、書かずには居てもたってもいられないような、「ちょうど良いレベル」の祝意や憤りといったところでしょうか。
「自由に書きたいことを書けばいいんで、口を出すな」ということでしたら、はい、お好きになさればよろしいんじゃあないでしょうか?
そのコメントに書き込まれた時間と熱意が、何にも資することなく、それでもニュースの都度書き込まれ、GOODやBADをひっきりなしに押す人もいるというのは、何やら歪な現象に思われます。
「ネット上のプロフェッショナル・コメンテーターです!」と言って、もしも仕事になるならまだわかりますが、
実際は、「暇なんで、笑っていいとものオープニングに毎日映りに行ってまーす!」とどれだけ違うのでしょうか?

さて、
今回は、本筋である「教育業界」の話題とは離れたような記事となりました。
実は初めのタイトルは別で、「塾の現場にヒョーロンカは要らない」でした。
指導現場に出没すればするほど、現場の足を引っ張って上から妨害する「本来要らない仕事のヒト」について指摘を入れる記事の予定だったのですが、前段が妙に長くなってしまいました。
いずれきっと書きます。
