突然ですが
つい先日、「ほめると叱る」はどちらがお子さんに必要なのでしょう?
という、
「迷走してね??」
と突っ込みたくなる、おかわいいテーマのブログを見まして、数行読んで微笑んで閉じました。
仮にも、この業界に属する方の文章のようでした。
(ま、そういう疑問が湧いちゃったんなら仕方がないですよね~)
その二元論は出てこない
お子さんを指導する現場にいたら、「どっちがいい?」というゼロヒャクの疑問が浮かんでくることはないです。
両方必要に決まってるがな!
「ほめる」は良いことや可能性を自覚させるための手段、「叱る」は過ちを質すための手段であって、その2つの手段の目的が「お子さん(をはじめとした相手)を伸ばすこと」にあると、魁は考えます。
「タイプによる」等という条件付きで語ろうとするのも、お子さんを不幸にします。
鳥山明先生の不朽の名作「ドラゴンボール」にて、
少年期にアクマイト光線をくらってもビクともしなかった孫悟空のような、「真っ白の善」のお子さんが実在するわけがなく、
原作の最後に登場して無言で地球を消し飛ばした純度100%悪の魔人ブウのような、「真っ黒の悪」のような純粋悪が実在することもありません。
ドラゴンボールの例は「善悪」についてですが、これが勉強に話が変わっても同じことです。
お子さんの学力を伸ばしていくにあたって、成功も失敗もお子さんと一緒に経験していくわけで、「ほめる」「叱る」がグラデーションになるに決まってます。
タイプどころか、その日、いやその瞬間で、「ほめる」「叱る」を使い分けることが必要です。
お手軽に、楽に指導したいなら、
「あいつには厳しくいこう」
「あの子はほめときゃいい」
と決め打ちして、お子さんの表層だけをペラ薄くわかったつもりになっておけばよい。
踏み込む前に、お子さんを「大体こんなタイプ」と決めたところでサボって止まっているから、
「どっちにしようかなー???」
という、冒頭のような乏しい考えに基づく誤った選択肢が出てくるのです。
*要は、
あとは伝え方の問題です。
「ほめるときはハッキリ、大げさなくらいに、声を高くして」
という「わかりやすく派」が多いと魁は見ています。
が、お子さんと対峙していると、そうでもないな?とパワーを込めてほめることに懐疑的な考えを魁は持つようになりました。
魁の読み調べた限り、脳の働きを考慮しての考察です。
*
「感情むき出しでいっぱいにほめる」
を受けたお子さんの反応として、
「ドーパミン」
という幸せを感じるホルモンが出ます。
サラリーマンで言いますと、
「大型の契約をとった」とか、
「昇進した、栄転した」とかいった、強い興奮と共に感じる悦びの際に出ているやつです。
「ギャンブルで一発当てた!」も同じです。「ゲームで強いボスをやっと倒した」も。
このドーパミン的なほめ方+喜び方は、強烈で幸福感に包まれますが、長続きしません。
ふとわれに返ると意外とあっさりと幸せ感が消えてしまい、反動で軽く不安が感じられたり、次の大きな「成功とほめ」が欲しくなります。
大人でもこの「上へ!」「もっと上へ!」に囚われ過ぎると幸せを感じにくくなっていきますし、常に人をうらやむようになったり、枯渇感から他人に不幸をまき散らしたり、巻き込んだりします。
カネの亡者的な人はきっとソレです。
お子さんにすると、ほめに慣れ、そのうち飽きてしまいます。
お子さんが100点以上をテストで取れることはほとんどないですし、100点を継続していたら(その努力はホントに素晴らしいですが)、100点を初めて取った時の嬉しさはだんだんと感じられなくなって、義務感というか、ふつう→場合によっては苦痛に近づいていきます。
中には、強くほめられることの反動で、保護者さんがひどくガッカリしたり、感情的になったりする様子を感じ取って敏感になり、大人の顔をチラ見し続けるお子さんに育っていってしまうこともあります。
*
魁は、お子さんの各種テスト結果はとても気にします。
保護者さんには敵わない他人ですが、テスト結果のご連絡がないとソワソワし始め、時には失礼を承知で、
「返却はまだですか??」
的なご連絡をメッセージすることさえもあります。(ふつうですよね)
結果が気になるだけに、上がってくれていれば
超絶嬉しい
です。
(上がってくれることが珍しいから嬉しいわけではありませんよ!)
ただし、その際に正面切って
「よかったねーーーー!!!握手しようぜ!!!」
等と、ノリやそれらしさアピールのためにパワーを込めてほめないようにします。
(お子さん置いてきぼりでそれを繰り返す同業者を見て、空疎だったからです)
代わりに、良い結果に対しては結果が出る前以上に10%マシくらいでほめ、その後、お子さんに直接でなく、ひとり言的にしかしハッキリと、
「ホントにすごい」「マジでいい」「かっこいい」
と、お子さんに聞かせる + 魁自身が再確認する思いでつぶやくようにしています。
(目線は外します)
・・・本当は超胴上げとかクラッカーをバンバカ打ち鳴らしたい思いでいますし、感動していないわけでもありません。
シンゴジラのように咆哮を上げたいくらいに嬉しいです。
ただし、魁の使命は、「1回の絶頂的点数の向上」ではなく、「継続的に準備を進め、次も成長できる状態」にお子さんを持っていくサポートです。
そのためには、
「うおー!やったね!」と言いたげな奇跡が起きたのではなく、
「初めの一歩」を歩み始めましたね…!あなたはもっと伸びられる人間ですよ、この得点は最高潮でなく、通過点です。というか、近い将来、魁なんぞより得点をとれる人間になってくださいね!
という思いでいます。
それに向かっていくためには、パワーを込めた言動で投げつけるのではなく、抑えた言葉(+非言語)で想像させたい!と図っています。
テレビドラマの世界においても、悲しいシーンで三流の役者は「号泣」、巧みな役者は「悲しみを堪えた微笑みに一粒の涙」で演じると言われます。
前者は全開に泣いて全開に悲しさを表現しているので、視聴者がどこか引いてしまうというか、入り込む余地がない。
それに比して、一見すると微笑んでいる後者を見て、視聴者は
「あれ?悲しくないの??」
とすら思います。
その瞬間に一粒ポロンと出た涙。
「あ、この人は悲しいんだ。悲しくないはずがない。でも堪えているんだ」
と、視聴者は自動的に揺さぶられ、後者の役どころの深い悲しみを、号泣されるより強く、深く想像します。
想像は多様であり、直接描かれていないだけに無限に拡がります。
自分のこと(勉強であればテスト結果)で、他人が喜んでくれるという状況においても、同じ想像力を介して、魁の喜びを伝えつつ、勢い任せに陥らないようにして、次に向けて
「今」
を大切にしたいのです。
だから、どうせなら、同じ点数のアップなら、あとにつながる伝え方をしたいと思って、短絡的に大喜びすることをしません。(指導時間中ずっとほめているゆとりもないです)
お子さんは機械ではないですから、嬉しいアップも悔しいダウンもきっとあります。
どちらも油断せず、恐れずに準備し、受け止めるのが成長→勝負です。
喜怒哀楽を出し過ぎないことが、トータルでお子さんに得るものがあると掴んで、「ほめつぶやき」に全ての想いと工夫を詰めています。