あー、この道は・・・
別に男はアントニオ猪木に目覚めたわけではない。
しかも、正しい出だしは「この道を行けばどうなるものか?」である。
同期のくまちゃんと共に軽井沢駅から乗り込んだタクシーから、社の訓練施設「パレス」に向かう道を眺めるともなしに眺めながら、男は思ったのである。
「あー、この道は・・・人の脚で下山するのは不可能だな。」
街灯の一つもなく、ひたすらに長い。
仮に夜に歩くとして、真っ暗な中を星月の明かりを頼りにふもとまで下りきるのは、物理的に全く不可能であると確信できた。
男が愛読してきた、超A級スナイパーを主人公にした劇画調の名作マンガに、
「ファイト・オア・フライト」
という心理学用語が登場する。
ファイト(戦う)オア(あるいは)フライト(逃げる)である。
最高級のプロであり、超ど級の犯罪者でもある主人公が、自身を研究対象にしようとした女性心理学者を追い詰めながらつぶやくように宣告する。
「難敵と相対した時、人間はファイト・オア・フライトを選択するらしい。しかし、その両方が無駄だと理解した場合は・・・」
ゴr・・・いやデュークのヒミツを記述すると、私(筆者)もアーマライトで狙撃されてしまうので、その後の展開はこれ以上書けない。
しかし「ファイト・オア・フライト」の心理の意味だけは説明しておきたい。
すなわち人の脳は、危機的な状況を察知すると、瞬時に「戦うか逃げるか」を選ぼうとするというものである。
あなたが休日にぼーんやりのんびりと散歩をしており、すっかり弛緩しまくった状態のときに、不意に道路脇の草むらがガサガサと鳴り、野獣が登場したときのことを想定してほしい。
それは狡猾なサルかもしれないし、興奮したイノシシかもしれないし、あるいは冬眠から目覚めたばかりで超空腹なヒグマかもしれない。
遠巻きに何とかなるという間合いではなく、お互いに射程圏内。
獣は明らかにあなたを敵視し、臨戦態勢どころか攻撃動作に入ろうとしているではないか。
その時に、静観するという選択肢は負傷や、最悪死を意味する。
負傷で済んでも、何らかの重篤な感染症をもらってしまうかもしれない。
いや、もはや感染症が・・・などと後のことを考慮している暇はない。
今この一瞬に何とかしなければ、致命的にやられる!
そういった状況であると考えて頂きたい。
もし、そうなったら彼我の戦力差を冷静に考える間などなく、
- とにかく戦って相手を撃退する
- 相手の射程圏外まで逃げ切る
のどちらかを選ぶしかないのである。
いわゆる「火事場のくそヂカラ」が覚醒し、その猛獣をひるませ、追い返せるかもしれない。あるいは、逃げたことで無傷で生還できるかもしれない。
結果は予想できず、いずれも有利であるとは全く言えないが、脳内で瞬時に判断するべき局面である。
つまりは男は、社内で恐れおののかれる研修を申し込んだはものの、すっかり気が滅入って嫌気がさし、逃げる気も大してないのに「逃げる」という生き延びるための行動を安穏と思い描いていたのである。。。
男の状況は、例のマンガの主人公たるスナイパーほどには、全く切迫していないという大きな差があったが。
不安に苛まれる(おそらく二人ともの)男を乗せたタクシーは、執拗なほどの長ったらしい乗車時間でさらに気持ちを悩ませた後、通称「パレス」到着した。